【神社巡り】刺田比古神社(和歌山県和歌山市)

目次

曖昧な記憶で参拝を振り返る

仕事で和歌山県和歌山市を訪れた際に参拝。

前回、和歌山縣護國神社を参拝したを参拝した後のつづきです。

和歌山城を下る時に見た鳥居の場所を頼りに、来た方向(和歌山市駅方面)とは逆の方向に向かうと、公園(岡公園)の横に「刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)」と書かれた社号標を見つけました。

(先に言いますが、実はこの神社は私が見た鳥居の神社とは別でした。)

刺田比古神社

刺田比古神社の社号標(左手が岡公園)

岡公園の中を通って刺田比古神社へ向かったのですが、公園内にも小さな神社が2つありましたので別の機会に紹介したいと思います。

公園を抜けて少し進むと刺田比古神社の鳥居が見えました。

刺田比古神社

刺田比古神社の鳥居

境内を直進し、突き当りを右に曲がると本殿と社務所がありました。

元旦ですし「吉宗公拾い親の神社」と書かれており、徳川吉宗にゆかりのある神社みたいなので参拝客が多いのかと思いましたが、それほど多くはありませんでした。

刺田比古神社

刺田比古神社の拝殿

刺田比古神社

参拝の後に御朱印を頂いたのですが、新年という事で通常の御朱印とは別に特別御朱印が授与されていました(しかも2種類)。

私は特別御朱印のうち1つを頂きました。

参拝もできたし御朱印も頂けたので刺田比古神社をあとにしたのですが、時間に余裕はありましたし結局和歌山城で見た鳥居の神社には行けていないので、もう一度別の神社を探すことにしました(つづく)。

刺田比古神社の御由緒

「刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)」は、岡の里地域の産土神として「岡の宮」とも呼ばれています。

御祭神の「道臣命(みちおみのみこと)」は神武東征の際に活躍したと言われており、岡の里の出身で大伴氏の祖先神とされています。

同じく御祭神の「大伴佐氏比古命(おおとものさでひこのみこと)」は道臣命の10世孫で、百済救済の際に武功を挙げたとされています。

創建年は不明ですが大伴佐氏比古命の20世孫にあたる「大伴武持(おおとものたけもち)」が、大伴氏発祥の地である当地に祖神・祖霊を祀ったのが起源だそうです。

大伴武持の28世孫にあたる岡本信濃守部秀が岡山城(和歌山市)を築くと、城の氏神として崇敬されました。

その後、南北朝の騒乱などの兵乱により古文書は焼失し社殿も荒廃してしまったそうですが、豊臣秀吉が和歌山城を築城する際には、鎮護の神として重要視したそうです。

江戸時代に入っても和歌山城の守護神として崇敬され、社領や社殿などの寄進を受けています。

八代将軍徳川吉宗が誕生した際、神主の岡本周防守長諄が仮親(拾い親)となりました。

(「拾い親」とは、当時、厄年に生まれた子どもは捨て子にすれば丈夫に育つという風習があったそうで、吉宗公も和歌山城の南西隅に捨てられたそうです。これを宮司が拾った事から「拾い親」と言われています)

そのため、吉宗公から特別の崇敬を受け、紀州藩主になってから神田の寄進を受けた他にも将軍になってからも多くの寄進を受けてそうです。

しかし、昭和20年7月9日の戦災により社殿・宝物・古記録の全てが焼失してしまい、その後復興しています。

厄年に生まれて捨て子にされた吉宗公が当神社で拾われ、その後異例の出世をされたことから「出世・開運・厄除けの神社」とされています。

境内の南西側には「岡の里古墳」という古墳があり、これは大伴氏の墓とされています。

刺田比古神社の御朱印

刺田比古神社の特別御朱印

刺田比古神社の特別御朱印(見開きサイズ)

刺田比古神社の概要

神社名
刺田比古神社
主な御祭神
・道臣命(みちおみのみこと)
・大伴佐氏比古命(おおとものさでひこのみこと)
社格等
古代社格 
式内社(小社)
近代社格 
県社
神階
従四位上
主な摂末社
・小林稲荷神社
・稲荷社
・弁財天社
・春日社
・天満社
・祓戸社
・楠龍発達社
・大黒社
・宇須売社
・金比羅社
・神馬者
鎮座地
和歌山県和歌山市片岡町2-9
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御朱印を頂ける場所
同敷地内社務所
参拝日
令和5年1月1日
地図

駐車場について

徒歩で参拝したため不明ですが、初詣用の臨時駐車場があった記憶があります。