【神社巡り】倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町)
目次
曖昧な記憶で参拝を振り返る
令和5年8月31日の参拝
前回投稿のつづきです。
鳥取県八頭町の「大江神社(おおえじんじゃ)」を参拝した私は、北上しつつ鳥取市の「賣沼神社(めぬまじんじゃ)」を参拝。
もう少し北上しつつ、今度は西へ向かいます。
最終的な目的地は米子市ですが、その道中に湯梨浜町に鎮座する「倭文神社(しとりじんじゃ)」を参拝。
「倭文神社」は因幡国の一宮で旧国幣小社でもあります。鳥取県を代表する神社の一社といっても過言ではありません。
湯梨浜町内の「日本のハワイ」こと「はわい温泉(旧羽合町)」がある東郷池の東側に「出雲山」という山があります。
出雲山は「大国主神」の御子神である「下照姫命(したてるひめのみこと)」が船でこの地に辿り着いた場所で、定住したのが現在の「倭文神社」と言われているそうです。
山あいの道を進み、「倭文神社」に到着。ちょっとややこしいですが、境内の案内板によると鎮座する山は「御冠山」だそうです。
けっこうな山道で、山の中に鎮座する様子は一般社会と隔離されたような感覚でとても神秘的です。
鳥居のすぐ先に神門があるのですが、立派な彫刻が施されていました。「さすが国幣小社」と思いながらしばらく眺めていました。
しばらく参道を進むと正面に拝殿が見えてきます。
御祭神は先述の「下照姫命」のほか主神は「建葉槌命(たけはづちのみこと)」。
「倭文」と書いて「しとり」と読む、初見ではほぼ読めないであろう言葉は、もともとは「しずおり」という織物を意味するそうです。
この地域の主産業だった「しずおり」を製造する職業集団「倭文部」の祖神である「建葉槌命」をお祀りしたそうです。
「日本書紀」で、武神「経津主神(ふつぬしのかみ)」「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」にも従わなかった「天香香背男(かかせお)」を服従させたという伝説を持つ神様です。
参拝ののち、御朱印を頂きました。
せっかくなので、近くにある「出雲山展望台」に寄り道。東郷池と、対岸のはわい温泉や街並みが見渡せます。
「下照姫命」は故郷を偲んでこの高台まで来ては、出雲の方角に向かっては何かをつぶやいていたそうで、その姿を見た人々が出雲山と呼ぶようになったのだそうです。
そして私は再び西へ向かって車を走らせます(つづく)。
倭文神社の御由緒
創建年は不明です。
「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の御子神である「下照姫命(したてるひめのみこと)」が出雲から海路で移住し現在地に住居を定め、亡くなるまで安産指導に努力されたと伝えられているため、近年まで主祭神は「下照姫命」とされていたそうです。
創建当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物だったことから、倭文部の祖神「建葉槌命(たけはづちのみこと)」を主祭神とし、当地と関係の深い「下照姫命」を祭神としているとのことです。
その後、倭文の織物が姿を消し安産信仰のみが残ったそうです。
平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に記載があり、かつては千石の朱印地を有していたと伝えられていますが、戦国時代に荒廃。
戦国時代には大名「尼子春久」により社殿を造営。江戸時代には鳥取藩主の池田氏の祈願所となりました。
明治時代に県社に列格し、昭和14年(1939年)に国幣小社に列格しています。
第二次世界大戦後は別表神社となり、現在に至ります。
安産の神様として崇拝されており、安産祈願の参詣者が多いそうです。
倭文神社の御朱印
倭文神社の御朱印
倭文神社の概要
- 神社名
- 倭文神社
- 主な御祭神
主神建葉槌命(たけはづちのみこと)織物の神様で倭文部の祖神とされている
配神 下照姫命(したてるひめのみこと)「大国主命」の御子神で、出雲から当地へ移住。安産の神様 事代主命(ことしろぬしのみこと)「大国主命」の御子神。「えびす様」として信仰されている 建御名方命(たけみなかたのみこと)「大国主命」の御子神。国譲りの際に「武甕槌神」から逃れ諏訪に入る 少彦名命(すくなひこなのみこと)「大国主命」と共に国造りを行う。身体の小さな神様で、医薬・酒造りなどの神とされる 天稚彦命(あめわかひこのみこと)葦原中国を平定するため高天原から派遣されるが「下照姫命」と結婚する 味耜高彦根命(じすきたかひこねのみこと)「大国主命」の御子神で「下照姫命」の兄にあたる。「天稚彦命」によく似ている
- 社格等
- 鎮座地
- 鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754
- GoogleMapで開く
- 御朱印を頂ける場所
- 同敷地内社務所
- 参拝日
- 令和5年8月31日
- 地図
駐車場について
参拝者用の無料駐車場があります。