【神社巡り】元伊勢外宮 豊受大神社(京都府福知山市)
目次
曖昧な記憶で参拝を振り返る
令和6年8月12日の参拝
8/11~12で兵庫県と京都府の北部を旅行しました。
2日目は宮津市から少し南に下って京都府福知山市に移動。
福知山市には酒呑童子で有名な神楽「大江山」の大江山があります。
辿り着いたのは「豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)」。こちらは「籠神社」と同じく「元伊勢」とされる神社で、社名からしてお分かりかと思いますが外宮にあたります。
今回の旅行の目的は「皇大神社」「豊受大神社」「天岩戸神社」の「元伊勢三社参り」で、ここに来る道中の神社を巡っていった旅程となっています。
伊勢神宮にならい、外宮である「豊受大神社」から参拝をしています。
昨日、当初「籠神社」を参拝予定にしていなかったのは、「元伊勢と呼ばれる地に一度に何か所も廻るのはなんとなく節操が無いな」と思ったからです。参拝しましたけど。
「豊受大神社」は福知山市の山間部、というかよく分かりませんが福知山市自体が山間なのかもしれない、に鎮座しています。
駐車場に車を停め、社殿に向かう階段を眺めながら、参拝客の多い「籠神社」とはまた違う静けさに若干の緊張感を持ちつつ進みます。
社務所には「御来光のレイライン、近畿五芒星巡り」という看板がありました。
「豊受大神社」「伊弉諾神宮」「熊野本宮大社」「伊勢神宮」「伊夫岐神社」の5社は線で繋ぐと逆五芒星の形になる。さらに「出雲大社」「豊受大神社」「伊夫岐神社」「富士山(富士御室浅間神社奥宮)」はほぼ同緯度で繋がっている、のだそうです。
私の友人が以前同じ事を言っていました。何やらこの五芒星で結界を張っているとかなんとか。。。。。
私は神社は好きですがその手の話にはとんと疎いので、てっきり都市伝説みたいな物かと思いましたが公式でも案内されている物だとこの時知ります。
とりあえず写真を撮り、友人に送りつけておきました。
そして階段を登った先に参拝順路が書いてあったのですが、絶対分からなくなると思って写真を撮っておきました。そしてこの時、ある事に気付きます。
「どうしよう、こんなに社殿あるのに小銭が無い。」ダイジェスト気味な参拝が決定した瞬間です。
鳥居は日本最古の鳥居形式で、樹皮のついたままの丸太材で組まれた「黒木鳥居」です。
社殿は、中央の本殿と左右の「多賀宮」「土宮」を囲むように末社が配置されています。
御祭神は「豊受大神(とようけおおかみ)」。天照大御神の食事を司る神(御饌都神)とされています。
拝殿と「多賀宮」「土宮」でそれぞれ参拝。周囲をぐるっと一周しながら境内を散策しました。
御朱印は社務所に書置きがありました。「本日は書置き」のような事が書いてあったので、日によっては直書きの御朱印が頂けるのかもしれません。
豊受大神社の御由緒
「豊受大神社」は旧号を「与佐宮(よさのみや)」と呼びます。第10代 崇神天皇の代に、それまで宮中でお祀りしていた「天照大御神」を大和国の笠縫邑にお遷しになり、その30年後に現在の「皇大神社」がある地ににお遷りになりました。この時、「豊受大神」を合わせ祀られたの創始となります。
「天照大御神」は当地で4年お祀りされた後、幾つかの地を巡り伊勢の地にお祀りされました。
伊勢神宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれており、「豊受大神社」は外宮にあたります。
と、ここまで書いて「籠神社」の起源とほとんど同じだと思いましたが、どうやら「吉佐宮」と伝承されている地はいくつかあるようです。
中央に「豊受大神」を祀る本殿とその両脇に多賀宮・土宮が鎮座しています。それを囲む末社37社には全国の明神大社の神々が祀られているそうです。
御祭神は「豊受大神」。天照大御神の食事を司る御饌都神で、衣食住をはじめ産業の守護神とされています。
第31代 用明天皇の代に皇子麻呂子親王が凶賊を退治する際に賊徒平定の祈願をし、成就した報賽として社殿その他の建物造営されたと伝えられています。
また、明暦2年(1656年)には江戸幕府4代将軍 徳川家綱の疱瘡平癒を祈願するため、宮津藩主の京極高国が社殿等を造営したそうです。
豊受大神社の御朱印
豊受大神社の御朱印
豊受大神社の概要
- 神社名
- 豊受大神社
- 主な御祭神
主祭神豊受大神(とようけおおかみ)天照大御神の食事を司る御饌都神
相殿神日子番能瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)天照大御神の御孫神
- 社格等
- 主な摂末社
- 多賀神社
月読宮
土之神社
風之神社
末社37社
- 鎮座地
- 京都府福知山市大江町天田内字東平178-2
- GoogleMapで開く
- 御朱印を頂ける場所
- 同敷地内社務所
- 参拝日
- 令和6年8月12日
- 地図
駐車場について
参拝者用の無料駐車場があります。