【神社巡り】伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)

目次

曖昧な記憶で参拝を振り返る

八坂神社」を後にした私は、「祇園四条」から京阪線に乗り、最後の目的地「伏見稲荷大社」へ向かいます。

「伏見稲荷大社」。「お稲荷さん(宇迦之御魂大神)」をお祀りする神社の総本宮として有名な神社ですが、共に有名なのが「千本鳥居」。

こちらも京都に行ったら一度参拝してみたいと常々思っていました。

京阪線「伏見稲荷」を下車して、伏見稲荷大社境内へ向かいますが、こちらも「八坂神社」同様に多くの参拝客で賑わっていました。参道を通るだけで楽しい。

伏見稲荷大社

参道をしばらく歩くと、「伏見稲荷大社」に到着しました。

伏見稲荷大社

さっそく参拝をすませ、境内を散策します。

伏見稲荷大社

「伏見稲荷大社」はご神山である「稲荷山」の麓に鎮座していて、「稲荷山」には多くの神蹟(神様がお鎮まりになった祠の跡)があるそうです。

そして「稲荷山」の入口に「千本鳥居」があります。

今回は時間に余裕がそれほど無いので、「伏見神宝神社」まで参拝しています。

伏見稲荷大社

やはりコロナの影響か、千本鳥居にはそれほど多くの参拝客はいませんでした。

伏見稲荷大社

「伏見神宝神社」でも参拝を済ませ、御朱印を頂いています。

伏見稲荷大社

これで京都での神社巡りを終え、京都駅に戻って広島に帰ったのですが、朝から一日中電車やバスに乗り、境内を歩き回りけっこう体力を使いました。

ほかにも京都には沢山神社があるので、今度はもっと時間を使って色々参ってみたいと思いました。

伏見稲荷大社の御由緒

「伏見稲荷大社」は、全国に約30,000社あると言われている稲荷神社の総本宮とされています。

和銅4年(711年)、渡来系の豪族である「秦伊呂巨(具)(はたのいろこぐ)」によって、御祭神の「稲荷大神(宇迦之御魂大神)」を稲荷山に鎮座されたのが起源とされています。

平安時代、東寺の五重塔を建立する際、稲荷山の木を伐採した事による祟りで、当時の天皇である淳和天皇が病に倒れます。

その祟りを鎮めるために「従五位下」の神階を贈り、それ以降、東寺と関係を深め鎮守社となるなど発展していきます。

延喜5年(905年)に編纂された「延喜式」では名神大社に列し、また神階は最高位である「正一位」を得ています。

また、平安時代中期に入ると「国の重大時や天変地異などが発生した際、朝廷から奉幣(幣帛:お供え)を受けていた特別な神社」である「二十二社」の中の「上七社」の一社として列されます。

鎌倉時代には、源頼朝からも寄進を受けています。

しかし、室町時代に入り「応仁の乱」の際、稲荷山に陣を設けた事で稲荷山が攻められ、応仁2年(1468年)に社殿等が全て焼失したそうです。

その年の12月には仮殿が建てられ、明応元年(1492年)に本殿の修造、明応8年(1499年)に五社相殿の本殿に遷宮されたそうです。

戦国時代、豊臣秀吉は生母「大政所」の大病平癒を伏見稲荷大社へ祈願し、それが成就された事から秀吉は信仰を深めます。

それにより楼門の建立などの大規模な寄進を行っています。

明治時代になると「神仏分離」により境内の寺社は廃絶、また明治4年の「太政官布告」により「官幣大社」に列格しています。

清少納言が記した随筆「枕草子」には、伏見稲荷大社へ参拝した時の事が記されています。

伏見稲荷大社の御朱印

伏見稲荷大社の御朱印

伏見稲荷大社の御朱印

伏見稲荷大社奥社参拝所の御朱印

伏見稲荷大社奥社参拝所の御朱印

伏見神宝神社の御朱印

伏見神宝神社の御朱印

伏見稲荷大社の概要

神社名
伏見稲荷大社
主な御祭神

下社(中央座)宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)食物・穀物を司る神で「お稲荷さん」として信仰されている

中社(北座)佐田彦大神(さたひこのおおかみ)

上社(南座)大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)

下社摂社(最北座)田中大神(たなかのおおかみ)

中社摂社(最南座)四大神(しのおおかみ)

社格等
古代社格 
式内社(名神大社)
中世社格 
二十二社(上七社)
近代社格 
官幣大社
その他分類
日本三大稲荷
神階
正一位
鎮座地
京都府京都市伏見区深草薮之内町68番地
GoogleMapで開く
御朱印を頂ける場所
同敷地内社務所
参拝日
令和3年3月10日
地図

駐車場について

参拝者用の無料駐車場がありますが、付近は混雑するそうで公共交通機関での参拝を勧められています。