【神社巡り】名和神社(鳥取県西伯郡大山町)
目次
曖昧な記憶で参拝を振り返る
令和5年8月31日の参拝
前回投稿の続きです。
鳥取県の湯梨浜町から米子市に向かって西進する私。米子に到着する前にもう一社神社を参拝することにしました。
今回の目的地は「名和神社(なわじんじゃ)」。鎌倉時代末期に隠岐の島に流された後醍醐天皇の脱出を助け、鎌倉幕府討伐に貢献した「名和長年(なわながとし)」とその一族をお祀りする別格官幣社です。
中国地方最高峰の大山の麓、日本海近くに鎮座。鳥居からは遠く日本海を望めます。
鎌倉倒幕に貢献した人物として個人的には「楠木正成(くすのきまさしげ)」(兵庫県の湊川神社の祭神)が思い浮かぶのですが、名和氏という一族は知りませんでした。勉強になりました。
大きな社地ではありましたが、天気のよろしくない平日の夕方前という事もあり参拝客は私一人。
神門を抜けると立派な拝殿が現れました。木の色目と青銅(かどうかは分かりませんが)施された装飾の具合も良い雰囲気でした。
拝殿にて参拝。御朱印は書き置きの物が拝殿にありましたので頂き、本殿まわりを一周。
参道には桜が植えられており、桜の季節には多くの参拝客が訪れるそうです。
参拝を終え、米子市のホテルへ向かいました(翌日へつづく)。
名和神社の御由緒
「名和神社(なわじんじゃ)」は、鎌倉から南北朝時代の武将「名和長年(なわながとし)」とその一族を祀っています。
鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)、隠岐の島に流された後醍醐天皇の脱出を助け「船上山」(大山の北東にあります)に奉じ、鎌倉幕府討伐に貢献します。
建武の新政以降は後醍醐天皇に重用されますが、朝廷に反逆した「足利尊氏」との戦で京都にて戦死。名和氏一族も戦死・自害してしまいます。
「名和神社」の起源は、江戸時代初期の承応・明暦の頃、名和村の名和氏邸跡に祠を建て「氏殿権現」と称したのがはじまり。
鳥取藩主「池田光仲」の崇敬を受け、社殿を拡張したそうです。
明治6年、県社に列格し「氏殿神社」と改称。明治11年には「名和神社」と改称し、別格官幣社(国家のために亡くなった武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社)に列格します。
明治16年、長者原に遷座し、新社殿を造営。
第二次世界大戦後は祭政一致が禁じられたため社殿の維持・修理に事欠く状態だったそうですが、名和長年卿殉節650年を記念し社殿の修復や新設を行ったそうです。
名和神社の御朱印
名和神社の御朱印
名和神社の概要
- 神社名
- 名和神社
- 主な御祭神
主祭神名和長年卿(なわながとしきょう)鎌倉~南北朝時代の武将。後醍醐天皇の隠岐島脱出を助け、鎌倉幕府討伐に貢献した忠臣
合祀名和一族42名
- 社格等
- 鎮座地
- 鳥取県西伯郡大山町名和556
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- 御朱印を頂ける場所
- 拝殿前に書き置きがありました
- 参拝日
- 令和5年8月31日
- 地図
駐車場について
参拝者用の無料駐車場があります。