【神社巡り】久井稲生神社(広島県三原市)
目次
曖昧な記憶で参拝を振り返る
仕事で広島県三原市を訪れた際に参拝。
三原市の久井地域周辺で仕事をしたのですが、予定より早く片付いたので近くの神社に参拝する事にしました。
久井といえば「主要道路(三原東城線)から大きな神社が見えるなぁ」と前々からその存在には気付いていたのですが、参拝する機会がありませんでした。
という訳で今回参拝したのは「久井稲生神社(くいいなりじんじゃ)」です。
参道の階段途中、右手に神楽殿が見えます。
階段を登ると正面に拝殿が見えます。
参拝の後、御朱印を頂いています。
実はこの日の出来事は今でもけっこう覚えています。
と言うのも、神社に向かう途中の車の中で「安倍晋三元首相が『襲撃』された。」というニュースをラジオで聞いており「襲撃なのでそれほど大事ではないだろうけど、物騒な世の中だな。」と思いながら運転をしていました。
社務所には「御朱印は書き置きをお渡しする」と書かれてあったのですが、ちょうど神職がいらっしゃり手書きで頂けるとのことでした。
その際、神職に「安倍元総理が撃たれたみたいですね。」と言われて、私が『襲撃』だと思っていたのが正確には『銃撃』だった事にこの時気が付きました。
その後は安倍元総理の安否が気になってニュースを逐一見ていたのですが、残念な結果となってしまいました。
という衝撃的な出来事があったので、この日の記憶はけっこう残っています。
今回、参拝に先立って国の天然記念物「久井の岩海」にも訪れています。
こちらは大きな岩が帯状に並んだ地になります。
その形成のプロセスは、まず地中にある岩盤の割れ目に地下水が浸食し、周囲が風化により土化しますが、風化せずに残った芯の部分が岩になります。
そして風化した土が流水に流され、無数の岩が地表に現れて岩海を形成しているそうです。
岩海の周りは山林なので、夏場は虫が出そうでちょっと気を使いました。
久井稲生神社の御由緒
天慶元年(938年)、京都から「伏見稲荷大明神」を勧請して創建されたそうです。
当地で暮らす人々の夢枕に白狐が立ち「稲荷大明神が山城国稲荷山から霊を分かってこの地に鎮座し賜う。」と告げ、人々はそのお告げに従い杭木を持ち寄り神殿を造ったとされています。
それ以来、当地は「杭之荘(くいのしょう)」と呼ばれたそうです。
戦国時代には、毛利元就により本殿が造営され、息子の小早川隆景からも社殿の造営等の寄進を受けています。
江戸時代には、三原浅野家の浅野忠義から社殿の再建等の寄進を受けています。
「久井稲生神社」では、毎年2月の第3土曜日に広島県内唯一の「はだか祭り」が挙行されています。
大正8年(1919年)から続き、無病息災を願って御福木を奪い合う荒々しい祭りが100年以上続いているそうです。
神域の宝山という地はかつて牛馬の売買が盛んで商人が多く集まり、「杭の牛市」は日本三大市場の一つとして広く知られていたそうです。
昭和のはじめ頃までは1万数千頭の牛馬が集まっていたそうですが社会情勢の変化などにより衰退していき、昭和39年(1964年)にその歴史を閉じています。
「久井」という地名は「杭木」を持ち寄って神殿を造った事に由来する説と「牛市」に牛馬を繋ぐ杭で溢れていた事に由来する説があるようです。
久井稲生神社の御朱印
久井稲生神社の御朱印
久井稲生神社の概要
- 神社名
- 久井稲生神社
- 主な御祭神
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)「伏見稲荷大明神」の御分霊を勧請 和久産巣日神(わくむすひのかみ) 火産巣日神(ほむすびのかみ) 弥都波能売神(みずはのめのかみ) 大物主神(おおものぬしのかみ)
相殿神天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
- 主な摂末社
- 八重垣神社
冥府神社
- 鎮座地
- 広島県三原市久井町江木宮之本1-1
- GoogleMapで開く
- 御朱印を頂ける場所
- 同敷地内社務所
- 参拝日
- 令和4年7月8日
- 地図
駐車場について
駐車場は有るそうですが、正確な場所は分かりませんでした。
近くに「三原市久井歴史民俗資料館」があり、共同の駐車場としているのかもしれません。