【神社巡り】山内神社(高知県高知市)
目次
曖昧な記憶で参拝を振り返る
令和6年3月19日の参拝
令和6年3月17~19日に四国を旅行しており、19日に高知県高知市に鎮座する「山内神社(やまうちじんじゃ)」を参拝しました。参拝の前日にはホテル「三翠園」に宿泊しています。
こちらの「三翠園」は土佐藩主「山内容堂公(やまうちようどうこう)」の下屋敷跡に建つホテルで、「山内神社」は「三翠園」の隣にあります。
「山内神社」の参拝を狙って「三翠園」に宿泊した訳ではなく、「三翠園」を宿泊したら、たまたま隣が「山内神社」だったのでラッキーでした。
「三翠園」の敷地には国の重要文化財「旧山内家下屋敷長屋」もあり、近くの大学(?)がちょうど卒業式だったのか、袴姿の女子もいて長屋の風景と非常にマッチしていました。
そんなこんなで「山内神社」に到着。
隣なのに道を間違えて、遠い方の参道「西参道」から参拝しています。
「山内神社」は横に鏡川が流れており、対岸には「高知競輪場」があります。
私はホテルの客室から見た時、野球場かと思いました。
参道を進むと「西神門」が見えます。
「山内神社」は土佐藩主「山内一豊公(やまうちかずとよこう)」をはじめとした歴代の土佐藩主と一豊の夫人である「見性院(けんしょういん)」が祀られています。
山内家の家紋でもある山内神社の神紋は「丸に土佐柏」。土佐出身の実業家「岩崎弥太郎」が創設した三菱のマークは、岩崎家の家紋「三階菱」と山内家の家紋を合わせたものだそうです。
境内には15代藩主「山内豊信公(やまうちとよしげこう)」の銅像もあります。
別名「山内容堂」としても有名ですが、個人的にはNHK大河ドラマ「龍馬伝」で近藤正臣が容堂公を演じたのが妙に記憶に残っています。
本殿の右隣には「熊野」「春日」「住吉」の三社をお祀りした「脇殿」があります。
もともと高知城内に鎮座していましたが、平成2年に現在地に遷座しています。
本殿、脇殿それぞれに参拝をして、授与所で御朱印を頂きました。
「山内神社」参拝のあとは「高知城」も観光。
高知城下には、「山内一豊公」の像と「藤並神社(ふじなみじんじゃ)」の社号標もありました。
「藤並神社」は文化3年(1806年)に、山内家の藩祖「一豊」と「見性院」、2代藩主「忠義」を御祭神として祀る神社として創建されたそうです。
その後、3代「忠豊」から14代「豊惇」の御神霊が合祀されましたが、第二次世界大戦での焼失を経て「山内神社」に合祀されたため社殿は残っていません。
山内神社の御由緒
創建について
明治4年(1871年)、土佐藩16代目で最後の藩主「山内豊範公(やまうちとよのりこう)」が先祖の霊を祀るため、「藤並神社(ふじなみじんじゃ)」の御旅所だった現在地に社殿を造ったのが「山内神社(やまうちじんじゃ)」の創建です。この時、3代「忠豊公」から14代「豊惇公」までをお祀りしています。
「山内神社」は明治5年(1872年)に村社に列格したそうです。
昭和7年(1932年)、15代「豊信公(容堂公)」と16代「豊範公」の幕末維新における功績を顕彰するための神社を造ることとなり、3代「忠豊公」から14代「豊惇公」の御神霊は「藤並神社」に遷座されました(初代「山内一豊公(やまうちかずとよこう)」とその夫人の「見性院(けんしょういん)」、2代「忠義」はもともと「藤並神社」に祀られていたそうです)。
そして、昭和9年(1934年)4月、現在地に「別格官幣社 山内神社」が創建されました。
昭和20年(1945年)に戦火により「山内神社」「藤並神社」ともに焼失してしまいますが、仮宮を建て祭祀を継続。
昭和45年(1970年)、「山内神社」を再建し「藤並神社」と合祀。藩祖「一豊公」と夫人の「見性院」、以下歴代藩主が合祀されました。
平成2年(1990年)には、高知城内にあった「熊野」「春日」「住吉」の三社が境内に遷座され現在に至ります
「別格官幣社」とは明治期に制定された社格の一つで「国家のために亡くなった武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社」とされています。
「別格官幣社」などの明治期の社格制度について詳しくはこちら。
御祭神について
御祭神は「山内一豊公」をはじめとする歴代の土佐藩主。
山内一豊公(やまうちかずとよこう)
「山内一豊公」は尾張黒田城主の三男として生まれます。戦国時代は「豊臣秀吉」に仕え武功を積みますが「関ケ原の戦い」では徳川方につき、土佐20万石の藩主となり藩政の基礎を築きます。
見性院(けんしょういん)(山内一豊夫人)
「見性院」は、近江浅井氏の家臣の娘、あるいは美濃城主遠藤氏の妹とも言われています。「山内一豊公」が「豊臣秀吉」に仕えはじめていた頃に嫁いだそうです。
当時貧乏生活の中で持参金10両で「一豊公」に名馬を買わせ、それが「織田信長」の目にとまった事で出世の糸口になったという逸話があります(「見性院」は法号)。
山内豊信公(やまうちとよしげこう)
「山内豊信公」は土佐藩15代藩主で「容堂(ようどう)」の名でも有名。分家「南屋敷」の出身ですが、藩主が相次いで早世したため本家を相続します。幕末に大老「井伊直弼」と対立し弾圧を受けます。「公武合体」を理想として力を尽くしますが、時代の流れを止めることができず徳川15代将軍「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」に対し「大政奉還」を建白しました。
「容堂」は隠居した際に用いた号。
公武合体論:公(朝廷)と武(幕府)を結びつけて幕藩体制の再強化をはかる思想。「孝明天皇(こうめいてんのう)」の妹「和宮(かずのみや)」が徳川14代将軍「徳川家茂(とくがわいえもち)」に降嫁することで実現しましたが、倒幕の流れを止めることはできませんでした。
山内豊範公(やまうちとよのりこう)
「山内豊範公」は土佐藩16代藩主で最後の藩主。最初の高知藩知事(県令の前身)でもあります。
山内家本家の出身ですが、14代藩主「豊惇(とよあつ)」が逝去した際はまだ幼かったため、分家出身の「豊信(容堂)」が15代藩主を継ぎます。「豊信」が「井伊直弼」との対立で隠居処分となった際(安政の大獄)、家督を継承し16代目の藩主となります。
「山内神社」は「山内豊範公」の手により創建されました。
安政の大獄:大老「井伊直弼」を中心にして行われた尊王攘夷派に対する弾圧。「山内豊信公」などの大名・公家に謹慎を命じたり、「吉田松陰」などを死刑にします。後に「桜田門外の変」で尊王攘夷派の浪士によって「井伊直弼」は暗殺されます。
山内神社の御朱印
山内神社の御朱印
山内神社の概要
- 神社名
- 山内神社
- 主な御祭神
山内一豊公(やまうちかずとよこう)戦国大名で土佐藩の初代藩主 見性院(けんしょういん)山内一豊の正室 山内家歴代藩主
- 社格等
- 主な摂末社
- 脇殿(熊野・春日・住吉三社)
- 鎮座地
- 高知県高知市鷹匠町2-4-65
- GoogleMapで開く
- 御朱印を頂ける場所
- 同敷地内授与所
- 参拝日
- 令和6年3月19日
- 地図
駐車場について
徒歩で参拝したため詳細不明ですが、先払い式のコインパーキングがありました。